『長電話』の復刊によせて
若林恵|編集者・黒鳥社
ラディカルな編集のスタイルズ
コラボレーターと編集者
アメリカのインディ音楽メディア「Pitchfork」に掲載された2018年の記事「Nine Essential Ryuichi Sakamoto Collaborations to Know」(絶対知っておくべき坂本龍一の9つのコラボレーション)は、坂本龍一さんの活動を理解する上で重要な記事だと思う。
ひとりで、あるいはオールスターキャストで制作される「ソロ」のプロジェクトと、ひとりかふたりの他のアーティストとの共同制作とを交互にこなしながら、坂本の作品は、政治に関与し、雑食でありながらも味わい深いグローバリズムを象徴するようになっていった。彼は明らかに他人と遊ぶのが上手で、その遊びに真剣に没頭する。彼の作品が最もパーソナルに見えるのは、自分以外の誰かを巻き込んだときなのだ。
冒頭にこう書かれた記事は、打楽器奏者の土取利行とのコラボ作品「Musique Differencielle 1」から、YMOとの「Behind the Mask」、デイヴィッド・シルヴィアンとの「Forbidden Colors」、つくば万博で披露した映像作家キット・フィッツジェラルド/ポール・ギャリンとの「Adelic Penguins」、クリストファー・ウィリティスとの「Sea Plains」、unaigumiとの「Miruku Yugafu-Undercooled」まで、キャリア全体にまたがる9曲を紹介していく。
坂本さんのベストコラボレーションがどれかということについては百人いれば百の意見がありそうだが、重要なのはそこではない。こうやって「類まれなコラボレーター」として、坂本さんの活動を振り返ってみることによって、名だたるセッションマンとしての坂本さん、映画音楽家としての坂本さん、YMOの坂本さん、ゲイシャガールズの坂本さん、ブラジル音楽に興じる坂本さん、電子音楽家の坂本さんといった多彩な側面をもったキャリアが驚くほどの一貫性をもって立ち現れてくるように感じられる。記事のミソはここにある。
私たちはとかく才能というものを、スタンドアローンで自律的に屹立したものとしてイメージしたがるが、そうやって坂本さんを語ろうとする試みは、坂本さんの活動の広がりとそれがもたらす楽しさを、どうにも窮屈なものにしてしまう。ところが、坂本さんを「類まれなコラボレーター」として捉えたとき、加藤和彦のバックで演奏や編曲を手がける坂本さんも、YMOで細野さんと対峙する坂本さんも、ベルトリッチの無理無体に四苦八苦する坂本さんも、ジャキス・モレレンバウムとブラジル音楽に興じる坂本さんも、アルヴァ・ノトと電子音に戯れる坂本さんも、生き生きとした十全の音楽家として、等価に、その姿を表すように感じられる。
「Pithcforkの記事によると坂本さんは優れたコラボレーターなのだそうです。そのご自覚はありますか?」。実はご本人に一度そう訊ねたことがある。答えはおそよこんな感じだった。
「自分は人付き合いがうまいタイプでもないので、人と何かをやるということがうまい方だと思ったことはあまりないですね。ただ、いつだったか、たしか中野翠さんに『坂本さんは編集者なんだよ』と言われたことはありますね」
そう答えたときの坂本さんは、まんざらでもない様子だったと記憶している。「編集者」という言葉を、坂本さんが悪い意味で使っていなかったのは間違いない。知られた通り坂本さんは河出書房の名物編集者の息子であるし、私の少ない経験から言っても、坂本さんはなぜか編集者という存在に対して、いつも一定のリスペクトをもって接してくださっていたように感じた(細野さんと仕事をさせていただいたときも同様だった)。
いずれにせよ、この返答がさらに面白いのは、「コラボレーター」という言葉を、坂本さんが即座に「編集者」と読み換えたところだ。
「編集者」を「コラボレーター」として理解することは、一度でも本をつくる作業に携わったことがあればリアリティのあることかもしれない。とりわけ著者として編集者と関わったことがあれば、その感はより強くなる。しかしながら、当の編集者はと言えば、自らをもって「コラボレーター」と任ずることは少ない。さすがにそれは僭越でおこがましいと多くの編集者が思ってるはずだし、そうであるべきものだとも思う。にも関わらず多くの書籍の多くのあとがきで編集者への謝辞が述べられているのを見るにつけ、編集者が心強いコラボレーターだと書き手から認識されているのも間違いないことなのだ。
編集者というのは実際かなり不思議な存在だ。当の企画の言い出しっぺであったりするくせに、自分では何も出来なかったりする。人さまに披瀝するような卓越した知識をもつわけでもなければ、文章を書くプロでもない。デザインもできなきゃ絵も描けない。いったい何をもってして金をもらっているのか、実際よくわからない。にもかかわらず、企画の舵取りをし、本や雑誌をひとつのパッケージに仕立てあげるために編集者は存在する。なんの資格も専門ももたないただ木偶の坊であるところの編集者は、結局、誰かとコラボしないことには何も始められない。編集者の生命線は、まさに良きコラボレーターたりうるかという点にある。
坂本さんは、実際このあたりの機微によく通じていた。それは先の返答からも伺い知ることができるが、なぜそう言いきってしまえるのかと言えば、坂本さんは実際ご自身で出版社を興しているからだ。
ランダム・アクセス・メディア
坂本さんは、1984年に設立され1989年まで約5年間続いた「本本堂」という名の出版社から、6つの出版物を刊行している。ここで坂本さんが具体的にどのような活動内容、編集業務に携わったのかは定かではないが、まず興味深いのは、坂本さんのなかで、本本堂での編集者の仕事が、音楽家の仕事とほぼ同一線上にあるものと考えられていた点だ。坂本さんは「本本堂」を立ち上げるにいたった経緯を、2018年のインタビューでこう語っている。
「本本堂という出版社をやっていたんです。はじめたのが1984年のことで、その年は、ナムジュン・パイクやヨーゼフ・ボイス、ローリー・アンダーソンなんかが日本にやってきて、いわば『メディアパフォーマンス』元年と言ってもいい年でした。そうしたなか自分も何かやりたいなと思ったときに、父親が編集者だったこともあって最もなじみの深いメディアとして本というものがありましたので、それを使って実験的なことができないかと考えたんです」(「坂本龍一、本の可能性を語る。『本はパフォーマンスかもしれない』」The New York Times Style Magazine Japan)
こうした経緯の背後にあった問題意識は、当時朝日出版社から発行されていた週刊の新書シリーズ「週刊本」の一冊として刊行された『本本堂未刊行図書目録』に収録された浅田彰さんとの対談で、より詳細に明かされている。長くなるが、抜粋してみよう。
龍|いや、レコードっていうのは、リアルタイムじゃないのよね。というのは本にも言えるんだけど、作ってて一番思うのは、プロセスが面白いのね。レコーディング・システムが面白い。それによって出来上がったものは、そのプロセス程は面白くないのね。なんとかプロセスを見せたいというのがあって、一つは最近のパフォーマンス・ブームなんていうのはまさにプロセスだし、結果っていうのは無いのね、パフォーマンスには。だから、ああいうものが注目されるということ、もっと大きなタイム・スケールで考えると何なのかということは僕はまだわからないんだけど。プロセスを見せないで結果を切りとって商品にするってことは今までずっとやってきたことなんだし、それが今、崩れつつあるということは何んだろうか。本への関心なんかはそこへ繋がっていくわけだけど。
龍|つまり、読者っていうかリスナーが勝手にエディットできて、組み立てていけるような.......。でも現実に考えるとそういうメディアっていうのはまだ無いわけだしね。それをカセットとかを利用して子供だちは既にやっていると思うのね。あれをもっとスマートにしたメディアっていうものを作りたい。完成品を売るんじゃなくて、そのプロセスを売るための、プロセスのきっかけとなるキットを、トリガーになるものを売るのが本当は実情にあってるような気がする。
彰|そういう意味では、事実上完全なランダム・アクセスをゆるしており、しかもそれを割と小回りのきく形でポロポロだせて、お互いの横のつながりも付きやすいという点で、本というのは非常にすぐれたメディアですね。
龍|だから今こういうポスト・モダンと言われる情況になって、もう一度わかりだしたという気がする。本のおもしろさっていうのはそういうところにあるんじゃないかと思う。これからもっと本の実験というのはたくさんありうるだろうし。
彰|マクルーハン以来、だれもがグーテンベルグ・ギャラクシーの終焉ということにこだわってきたわけだけれど、我々はもう、ポスト・グーテンベルグ的に本を見ているわけですね。つまり、活字と真摯に対峙しつつ一ページから最終ページまで読み通すなどということは全然していないのであって、ランダムにパラパラ読みとばしている。『GS』なんていかにも部厚いけれど、あれはつまり走り抜けることを拒むというメッセージなのね。要するに千何百枚あるということに意味があるんだから、一枚一枚ページをめくって読みを進めていくうちに、認識が深まり、それとの反映で自分自身を深く知っていくというふうな、グーテンベルグ的な意味での本、その機能はもう終わったと思うけれども、そうじゃない所から見直したときにすごくいいメディアとして再発見されるんですよね。
龍|きりとり可能だということですね。ナムジュン・パイクがいみじくも言ったけれども、音楽っていうのは一〇人いれば同じ音を聴いちゃうわけだけど、本というのは一〇人いても別々の本が読めるでしょう。そういう面もあるわけです。ビデオはどうかな、音楽に近いかな。
彰|音楽に近いでしょうね、今の段階では。
坂本さんはここで、デジタルメディアが勃興するなか(インターネットの存在はまだ認識されていない)、既存の「音楽コンテンツ」を支えていた制度、あるいは経済上のインフラストラクチャーを含めたシステムが衰退しはじめていることを受けて、実際の制作現場にある音楽の面白さを、どうやって掬い上げ/救い出すかという観点から「プロセス」に目を向け、その延長線において本に可能性を見出した。
本の制作においても、出来上がった完成物が、実際は面白いプロセスを起動させるための、ただのアリバイにすぎないのではないかとはよく感じることだが、音楽においては、なおさらそうなのかもしれない。坂本さんは、そうしたプロセスの面白さを表出するには、当時の音楽の制作・流通・消費のシステムは不自由すぎると考え、「事実上完全なランダム・アクセスをゆるしており、しかもそれを割と小回りのきく形でポロポロだせて、お互いの横のつながりも付きやすい」ことから本の価値に目を向け、それを一種のパフォーミングアーツとして提出することを試みたのだ。
その第1作目が、ピアニストの高橋悠治さんとの「コラボ」作で『長電話』というものだ。この作品について坂本さんは、先のインタビューでこう解説している。
「これは、ぼくと高橋さんとでわざわざ泊まりがけで石垣島に行って、同じ旅館の別々の部屋から長電話するという企画だったんです(笑)。いわば遊びなんですが、それはそれで一種のパフォーマンスの記録ではあります。また、本を出版すること自体をパフォーマンスにするという趣旨でやりはじめたことなので、同じ仕様の本をページに何も印刷しないでつくってみたり、本の表紙を渋谷のパルコの壁一面に貼るというようなこともやったんです。小さなパフォーマンスですね。出版はメディアパフォーマンスだということをやりたかったんです」
最初からそう目論まれた通り、どうでもいい話が延々と続く本書は、本来であれば、ある特定の意味や商品的価値に向けて作動するはずの「対談」というプロセスの形式を逆手に取り、それをどこにも向かわせないことによって、逆に「ランダム・アクセスしかできない」本となった。そして、そうであるがゆえにつまらないかと言えば滅法面白いのだから、プロセスをそのまま記述することで、「完成」に向けて編集を作動させることに抗った坂本さんの編集戦略は、見事にハマったと言える。
制度の境界線で遊ぶ
思うに坂本さんのここでの仕事は、あるコンテンツを成り立たしめている「制度」や「形式」、あるいは「システム」を、巧みに「編集」したところにあるのだろう。
例えば、「対談」という制度は、あらかじめ編集サイドが決めたお題に沿って人がキャスティングされ、予め予定された論点に沿って対話が進み、仮に紆余曲折や脱線があったとしても編集段階で刈り取られ、あらかじめ予定されていたページ数と文字量に収まるべく、ほぼすべてが事前に決定されている。であればこそ、いきなり用事もなく人が対話をはじめて、「眠くなってきた」と言って終わるような「対談」は、出版の制度のなかでは、基本成立しない。
『長電話』は、その意味で自明のプロトコルと化した産業上の建て付けをハックしたわけだが、その一方で、それが「あえて仕込まれた」対談であればこそ、普段の日常会話であればあえて話したりしないことに触れることにもなるという可能性を閉ざしてもいない。お互いが会話を録音されていることを知っていることによって起こる対話は、それをパフォーマンスと捉え直したとき、単なる長電話とは異なるスリルをもたらすことにもなる。
つまるところ、編集者のここでの仕事は、まずは、対談という制度のもってる制度性を的確に把握しながら、それをときに逸脱したり、完全に無視したり、ときにそれをそのまま演じることでパロディ化/メタ化したりしながら、制度との距離をコントロールすることにある。言い方を変えるなら、制度との境界線で遊び続けるということだ。編集者・坂本龍一の面目が躍如するのは、この点においてだろう。
加えて、こうした遊びを実践する上で「誰と遊ぶか」は、企画の最大のキモとなる。コラボレーター=編集者としての坂本さんは、「坂本龍一」というクリエイターを最も活き活きと躍動させる遊び相手のキャスティングにおいて類まれなセンスを発揮し続け、その感覚が鈍ることは晩年にいたるまでなかったように見える。まさにPitchforkの記事が語った通りだ。
彼は明らかに他人と遊ぶのが上手で、その遊びに真剣に没頭する。彼の作品が最もパーソナルに見えるのは、自分以外の誰かを巻き込んだときなのだ。
「編集」の仕事がいつしか、既存のテンプレートやフォーマットのなかに、「コンテンツ」と呼ばれる何かをただ代入することでしかなくなり、「デザイン」の語がそのテンプレートを覆い隠すためだけの方便になっているなか、音楽だけでなく出版の領域においても、流通や販売インフラを含めた最も広い意味での「制度/システム」に目を向け、それをズラし、ハックすることで、コンテンツを絶えず活性化し続けることができると考えた坂本さんの活動は、プロを自認する産業内部の編集者に大いに反省を促すだけでなく、今なお参照すべき道標ともなりうる。制度とコンテンツの関わり方をめぐって、これだけ果敢に、戦略的に、その緊張関係を弛ませることなく遊び続けようとした人を、自分はほとんど知らない。
それにしても、制度とコンテンツがせめぎ合う場所で、新しい実験を絶えず繰り返すという営為は、本来はいったい誰が担うべき仕事なのだろう。坂本さんは、それこそが「編集者」の仕事だと、期待とともにいつも考えていたのではないかと思う。